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PREHISRORIC ARMAGEDDON BY YOSHIMAX

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古代史研究家の金達寿(きんだるす)氏は、八幡の「八」とは「多くの」という意味で、「八幡」とは「多くのハタ」であると説く。つまり八幡=「多くの秦」であり、秦氏にとっての総氏神であるという。
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また、八坂(やさか)を弥栄(いやさか)と書くように、八幡=「弥秦(いやはた)」であるという説もある。ここで「古語拾遺」の言葉を思い出すと・・・

「秦の字を訓じて、これを波陀(はだ)と謂う」

前述したように、秦氏は、もともと「はた氏」ではなく「はだ氏」といった。これを「八幡」=「弥秦」=「いや秦」に適用すると「イヤハダ」となる。

エルサレム教団はユダヤ人であった。もともと、ユダヤ人には姓が無く、古代ローマ帝国出身のユダヤ人が、中国へやって来たときに「秦」という姓をつけられたことも論じてきた。


「ユダヤ」はヘブライ語で「イエフダー(Yehu-di)」であり、アラム語では「イエフダー(Yehudai)」である。ヘブライ語もアラム語も基本的に子音表記なので、ヘブライ語でもアラム語でも、表記する時は「YHD」となる。

ここで、「八幡=イヤハダ(Yahada)」の母音を省略してみるとやはり「YHD」となる。


つまり、「八幡=イヤハダ(Yahada)」=「イエフダー(Yehudai)」の母音変化であることがわかり、「八幡」とは「ユダヤ」のことだったのである。

同時に、八幡神=「イエフダー(Yehudai)神」=「ユダヤ神」だったことも意味して来るのだ。ユダヤ神といえば、いうまでもなく「旧約聖書」や「新約聖書」の絶対神と言うことになるのだろう。

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(福岡県の八幡系シュライン)

渡来系とされる秦氏は、京都に「平安京」を造ることにおいて、中心的な役割を果たした人々でした。彼らは高度な技術力を持ち、それまでも天皇の権威を誇示するために「マナの壷」の形を模した巨大前方後円墳の建設をはじめ、数々の土木工事を行ってきました。

かつて大阪平野に流れ込む淀川流域は氾濫につぐ氾濫で荒れ果てていました。そこで、堤防を築き難しい治水工事をやってのけたのも秦氏です。

そして、京都に平安京を造るために技術力の粋を結集し、労働力を提供したのも秦氏でした。かつて京都盆地は、相次ぐ鴨川や桂川の氾濫で荒れ果てた土地を治水工事によって川の流れを大きく変えて、そこを住みやすい土地に改良していったのです。

また、平安京が築かれた地域自体が、元々は秦氏の所有地でした。その土地は、秦氏とその一族である、賀茂氏、八坂氏、土師氏、栗田氏、茨田氏などの所有地でした。旧皇居、即ち京都御所が置かれていた土地も秦河勝の所有地でした。

話は少しそれますが、秦氏は645年の「大化の改新」後に姓を変えていきました。
秦、畑、端、畠、波田、羽田、八田、半田など。これらに山や川や野などを付けた秦野、畑野、畠山、畠田、畑川、畑中、波多野、八幡…。

一方、秦を違う姓に変えたケースもあります。わかっているだけでも、服部、羽鳥、林、神保、宋、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛嶋、小松、大蔵、本間、高尾、原、常、井出、赤染、三林、小宅…。戦国大名の土岐、長宗我部もそうですね。

平安遷都のために必要な巨額の資金も、「秦 島麻呂」が出しました。つまり、平安京は京都盆地にエルサレムの街を再現すると同時に、秦氏が朝廷中枢に入り込み権力を掌握するための巨大な公共事業でもあったのです。

よく指摘されている、「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味です。エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味であり、平安京ということなのです。この平安京には、秦氏のエルサレムへの憧憬の想いが込められています。

それは平安京が造られた後に始まった「祇園祭」に現れています。今も全国の各地で夏に行われている祇園祭の中心であり本場は京都の祇園祭です。京都の祇園祭における最も盛大な行事、山鉾巡業は、毎年7月17日に行われています。

この日は、聖書の「創世記」にある、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日と同じです。祇園祭は、元々は伝染病が起こらないようにと願いから始められました。

一方、旧約聖書によれば、古代イスラエルのソロモン王は、やはり伝染病が起こらないようにとの願いを込めて、ノアの箱舟がアララト山に漂着したとされている日とちょうど同じ時期に盛大な祭りを行いました。

京都の祇園祭は、7月1日と7月10日にも重要な催しがあります。これらの日は古代イスラエルの人々にとっても、重要な催しのある日でした(ラッパの祭り及び大贖罪日)このように、平安京には聖書から由来されていると思われる事柄が多くあることがわかります。

当時の人々は、渡来人たちと一緒になって、平安京遷都というビッグ・プロジェクトを成し遂げました。平安京の時代の日本は、ユーラシア大陸全域にわたる多くの民族や文化や宗教や各地の伝統を全て包容し、そこから新しい文化と文明を創造していったのです。

また、京都の近くに「琵琶湖」があります。イスラエルには琵琶湖と大きさも形も似たガラリヤ湖という湖がありますが、これは古代には「キネレテ湖」と呼ばれていましたが、これは琵琶の意味です。京都付近にはイスラエルを思い起こさせるような名前が多く存在するようです。

平安京を建設した秦氏は、全国に数多くある「稲荷神社」の創建にも深く関わりました。全国に1番多い神社は八幡神社で、稲荷神社は八幡神社に続いて多い神社です。

稲荷神社の頂点に立つのは、京都の伏見稲荷大社です。伏見稲荷大社は、秦氏の首領だった秦 公伊呂具が創建したものです。稲荷神社は秦氏の氏神(氏族が崇拝する神)でした。

また、空海に始まる真言密教の僧侶たちも、熱心に稲荷信仰を広めていきました。稲荷神社というと、朱色の鳥居やノボリ旗が特徴です。入り口にある狛犬も普通の神社のものは獅子なのに、稲荷神社はキツネになっています。

キツネは本来の神道とは別のものです。実際の稲荷神社とキツネは無関係でしたが、後に仏教系のダニキ信仰のキツネが入ったことで、稲荷神社にキツネが置かれるようになりました。

本来の稲荷神社は現在とは違うものでした。本来は秦氏の信仰する景教の流れを汲むものだったのです。イナリは、今は普通、「稲荷」と書きますが、漢字が日本に輸入される以前から、イナリという音がありましたので、稲荷は当て字なのです。

ある研究家は、このイナリというのは、「INRI」(ユダヤの王ナザレのイエス)からきているのではないか、と考えています。稲荷大神は正式には「宇迦之御魂大神」という名です。

この神は、実は伊勢神宮の外宮で祀られている「豊受大神」と同じ神なのです。世界百科事典には「(豊受大神の)トヨは美祢、ウケは…食物の意、すなわちこの神は…うかのみたま(の神)である」と。要するに、稲荷の神と伊勢の神は同じだということです。

また同辞典によれば、「伊勢神道」(伊勢神宮に基盤を置いた神道)において、「豊受大神」は秦氏が創建した「蚕の社」で祀られていたアメノミナカヌシの神と同一神とされているといいます。

また三神たける氏は「豊受大神が伊勢の外宮に移る以前、この神は丹後の『籠神社』で祀られていました。その籠神社の宮司はハッキリといいました。豊受大神はイスラエルの神であると。稲荷大神は元々は絶対神ヤハウェであり、イエス・キリストだったのでしょう」といっています。

伊勢神宮の神も、稲荷の神も、秦氏が創建した蚕の社のアメノミナカヌシの神も、みな同じ神なのです。元々はイスラエルの神ヤハウェだった。

地方に伝播されたり後世になって名前がいろいろになったので、たくさん神が存在しているように思いますが元は1つのようです。
伊勢神宮にまつわる「元伊勢」の1つである丹後の「籠神社」の近くに日本三景として美しい景観で有名な「天橋立」があります。

細長く伸びた砂洲が湾の中を横切っています。しかし、この橋立の由来は、元々は天と地とを結ぶ橋だったのが、外に外れて落ちそうになったのだといいます。しかし、立てた橋なら、元々は梯子だったということです。

昔は梯子を立てることを梯立と言っていましたから、「橋立」の由来はここから来ているのでしょう。聖書には、昔のイスラエル民族の父祖であるヤコブが、ある夜に神の幻の中に天と地を結ぶ梯子を見て、天使たちがその梯子を上り下りしていてた、という話が載っています。(創世紀28・11〜12)

この天橋立の伝説は、まさに聖書の話と酷似しています。また、日本の神道には、古来から「神道五部書」というものが伝わっています。これは鎌倉時代に完成したもので、伊勢神道のためのものです。

ある研究者は、この「神道五部書」と聖書の「モーセ五書」の間に見られる数々の類似性について語っています。秦氏は、稲荷神社の創建以外にも、伊勢神宮の創建にも深く関わっていたようです。

ユダヤ教徒は日本には古代イスラエル10支族の末裔がいると考えている。その傾向は、一般人よりも正統派と呼ばれるユダヤ教徒や、更にはラビと呼ばれるユダヤ教指導者たちになるほど強い。

邪馬台国を始めとする「魏志倭人伝」に記された倭国の住民は、みな刺青をした南方系の文化を共有していたという。刺青や漁業中心の生計は海洋民族が主体である。

弥生文化と中米マヤの文化は共通点が多い。弥生人は白い貫頭衣を着て頭には鉢巻、絵柄の無い土器を使用していた。琉球民族と近い遺伝子を持っているインディアンである中米マヤの末裔、ラドカン族が弥生人と同じ風俗習慣を持っているのである。棒で穴を開けて種をまいたり、焼畑耕作をするなど、共通点は多い。

刺青文化を持った中米マヤ系インディアンが太平洋に乗り出し、古代の西日本列島に流れ着いて上陸し、同様に刺青文化を継承した中米マヤ系インディアンの血を引いたポリネシアやミクロネシアから渡来した人々と、東南アジアから渡ってきた人々が稲作を日本に持ち込んで、お互いの文化が融合し発展したのが弥生時代の文化であるようだ。

弥生時代末期のシャーマン国家である「邪馬台国」を、鉄の武器を持って日本に渡来してきたアジア系騎馬民族(大和民族)を率いて滅ばし占領したときの大王であった神武天皇は、古代イスラエル10支族の中でもガド族の血を引いている可能性が高いといわれている。

中には大和民族に降伏し従った弥生人もいたようだが、逆らって追われた日本原住民は東西に逃げて、東は蝦夷で西は熊襲と呼ばれ、次第に大和朝廷の軍勢に駆逐されていった。ヤマトタケルの蝦夷征討の話や、その後に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の蝦夷征伐はこのときの話なのです。

こうして九州から追われた熊襲は奄美・琉球諸島へと逃れ、最後まで大和朝廷に抵抗し東に追われた蝦夷は北海道に逃れアイヌとなり独自の文化を保ってきた。

その時に中央に置かれた、御+ガド=ミカド「帝」が開いた大和朝廷はヤマト(ヘブライ語の方言でヤゥマト=神)朝廷であり、そのまま古代イスラエル朝廷だと思われる。

ユダヤの言い伝えでは散った10支族の内、ガド族が「マナの壷」を継承したが、現在では行方不明になっている。そしてガド族の長のひとりの名前は「ニッポン」と呼ぶのだという。実は、前方後円墳は「マナの壷」を模ったものである。このことから古墳時代の5~6世紀以前に古代イスラエルの10支族の血を引く者たちが日本に来ていた可能性は高くなってくる。

いつの世も「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。やがて北海道と奄美・琉球諸島を除いた日本列島を統一した大和朝廷は大規模な戦争が必要なくなったが小規模の軍隊は温存し、それ以外の騎馬民族の一部は降伏した弥生人と一緒に農耕へと転向していく。そして弥生時代に日本にいなかった馬たちは農耕馬として使われるようになった。

その後、大和朝廷は歴史の大編纂を始める。古事記や日本書紀は侵略者側の立場で書かれたものであり、縄文時代や弥生時代の文献がほとんど残っていない理由…大和民族が攻め込んで来たことで、それ以前の歴史の多くは闇に葬り去られたのである。話を戻そう。

終末戦争の際、隠されたルーツを天皇が発表したとすれば、日本の立場が大きく動くことは間違いないだろう、自分たちが古代イスラエル10支族の末裔だと知れば、ユダヤ人たちを見る目も変わってくるでしょう。ユダヤ人たちが期待して言うように日本はイスラエル共和国の味方になる可能性は十分に考えられる。

しかし、問題もある。確かに天皇家や一部の貴族階級はガド族の末裔なのかもしれない。でも、我々一般人である現代の日本人は民族的には古代ユダヤ人の末裔というより、ほとんどが彼らに従って来たモンゴル系や中国系や朝鮮系などのアジア系騎馬民族の末裔なのである。

だから現在の日本は既にユダヤ教徒の国とはいえないのです。その上、今のイスラエルは白人系(アシュケナジ=元ハザール汗国人)が大勢を占めて支配している国なので、日本の皇室とは民族的なつながりはもはや薄いと思われます。そこが日ユ同祖論が今ひとつハッキリしない問題点でもある。

古代イスラエル10支族の子孫が長い年月をかけて世代替わりしながらもユーラシア大陸を横断して一部が日本にやってきたときは、本当のユダヤ教とはかなり異質になってはいたが、確かにユダヤ教が伝播されたのだ。

やがて、彼らの信仰は日本固有の「神道」という宗教になった。いまでも神道の中にはユダヤ教の痕跡が数多く存在するようだ。だからと言って今日の神道はユダヤ教では無い。ユダヤ教にルーツを持ちながらも大きく変わってしまった。重要な根幹部がユダヤ教とは異なっているのだ。

歴史上の人物でこのことをいち早く見抜いていたのが、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルであった。彼は鹿児島に上陸した後、長崎の平戸から山口~京都と旅をする間に不思議な感覚にとらわれたという。

神の教えを全く知らない野蛮な国であると聞かされて来てみたが、どうやら日本の人々に崇高な倫理、道徳、礼儀が備わっている。しかも、それは異教的なものではなく、明らかに絶対神の教えが元になっているようなのだ。

イエズス会の管区に当てた手紙の中で、ザビエルは「この国はかつてキリスト教が全国規模で伝道された痕跡がある」と報告。一体、いつキリスト教が伝来し、誰が宣教したのか。様々な手を尽くして調べたが、結局は謎を解くことが出来なかったという。

キリスト教を知り尽くした宣教師であったからこそ、ザビエルにはわかったのだろう…インドや中国や朝鮮には無く、この日本にだけ存在するキリスト教の空気を敏感に感じ取っていたようなのだ。

ユダヤ教から生まれた神道は、少なくとも16世紀の段階でキリスト教に変わっていたようなのだ。でもそれはカトリックでもプロテスタントでもない。全く別のキリスト教が伝来し、新たに神道として加わっていったのだ。

これは、神武天皇の前にイエス・キリストが降臨し、直接教えを述べたという話がある。彼らの信仰がユダヤ教からキリスト教になったのはこのときからであろう。だが、どうもそれだけではないらしい。古代イスラエル10支族の子孫とは別に、キリスト教徒が集団で何度も古代日本に渡来してきていたようなのだ。

これはヨーロッパで発生したゲルマン民族の大移動で、キリスト教国家であった「ローマ帝国」が滅亡したことと深い関係があると思う。一説には景教(キリスト教の一派でネストル教)が1250年位前に日本に伝来したという話まである。景教とは、西洋人の思考でいえばヨーロッパからアジアに伝わったキリスト教ということになってしまっている。

一般に西暦451年に「エフェソ公会議」でマリア崇拝を禁止したために問題視され、同年の「カルゲドン会議」にて異端の烙印を押され追放された「ネストリウス派」のことを指す。追放されたネストリウス派はシルクロードを通って、ペルシャ(イラン)やインドや中国やモンゴルに伝来し、635年には唐の首都であった長安で正式に布教が認められたことが「大秦景教流行中国碑」に記されている。

635年といえば日本では「大化の改新」の10年前であり、既に中国に対して遣隋使や遣唐使を派遣し積極的に大陸文化として宗教や思想や高度技術などを取り入れていた時代である。大陸に渡った日本人が景教に触れる機会も多かったはずです。

真言密教を学び会得した「空海」などは実は景教を学んでいたのではないか?という研究家も多く、先の「大秦景教流行中国碑」のレプリカが高野山に置かれているほどである。

よって、公表されている歴史では記されていないが、景教が日本に伝来していた可能性は十分にあるだろう。通称、景教博士といわれている東京文理科大学の佐伯好郎博士は、三柱鳥居こそ証拠であると言っている。三柱鳥居はキリスト教の真髄である「三位一体」を表現したものだというのだ。

三柱鳥居は茶道でも「三つ鳥居」という名で釜の蓋を置く道具として使用されている。モデルとなったのは「蚕の社」の三柱鳥居で、ここを氏神様と崇めた三井家が茶道の場で洒落物として採用したのが始まりらしい。

そもそも茶道は袱紗の取り扱いや椀を回して飲む作法などが、当時の西洋文化の中で特にカトリックの聖餐式の作法とそっくりなのである。

これはザビエルなどの宣教師たちが持ち込んだキリスト教の産物ではなく、もっと古い景教の遺物が三柱鳥居だったのだ。景教であるネストリウス派は異端扱いされ追放されたが、それは極めて教会内部での政治闘争の思惑によるもので、根本の教義自体は糾弾されたわけではない。

マリア崇拝を認めないという点はプロテスタントと同様である。「三位一体」とはキリスト教で言う絶対神のことで、御父なる神ヤハウェ、御子なる神イエス・キリスト、精霊ルーハという3人が本質的には1つだという思想である。

3人の神は互いに独立しているものの1人の絶対神が顕現したものである。佐伯好郎博士は、景教の三位一体を立体的に表現したのが三柱鳥居であるという。日本では古来から神を数えるときに柱と言う。1柱、2柱、3柱というように。

天と地を繋ぐ柱こそ神の象徴だと考えてきた。鳥居の柱も陰陽2神(男神カムナギと女神カムナミ)を表現しており、3本柱の鳥居はそのまま「三位一体」の3人の神を表現しているという。佐伯博士は三柱鳥居が池の中に立っているのは、ここで洗礼(バプテスマ)が行われたでないかと指摘している。

三柱鳥居を造った人間たちは一体、何者なのか。この蚕の社の案内板には、ここが古代豪族「秦氏」によって建立されたものであると記されている。

よって、三柱鳥居を造った人たちは秦氏であるという定説がある。では一体、秦氏とは何者なのか。一般には4世紀~5世紀ごろに朝鮮半島からやってきた渡来人であり、数多くいた渡来人のなかでも秦氏は最大勢力を誇っていたようだ。

他の渡来人が政治の表舞台に出て行く中で、意外にも歴史上では秦氏を名乗る人は数えるほどしかいない。むしろ、政治よりも、経済活動に力を注いだらしく、蚕の社という名にあるように養蚕業で名を馳せたようだ。

養蚕業で作られる絹(シルク)などを使って絹織物を作ったことから秦氏のハタとは機織のハタではないかという説もある。
元々は大陸の進んだ技術を持った集団であることは確かであり、治水工事や巨大古墳の建設などにも力を発揮したことが記紀にも記されている。

また、渡来人であるのにも関わらず、彼らは神道を奉じた。日本古来の神道に帰依し、次々と神社を建立していく。
そこから派生した神社としては、稲荷神社、八幡神社、白山神社、白髭神社、金比羅神社、日吉神社などがあり、伊勢神宮の創建にも関わっている。
景教徒であった秦氏が伊勢神宮の創建にも関わっている…ということは、「天照大神=イエス・キリスト」ということになる。確かに天照大神の天岩戸逸話では「天照大神が悪い弟を嫌って岩の洞窟に隠れた」という話です。

この天岩戸と酷似した話がある、それは「キリストが磔になった後に巨大な岩穴の墓に葬られ、岩の扉で塞がれたが天使がそれを開けてからイエスが復活している」のだ。日本では古来では人が死ぬことを「お隠れになる」と言った。

その当時、確かに日食もあっただろうが、これを天照大神の話に当てはめてみると神は一度死んだことになる。その後、神は甦り(希望の)光を人々に投げかけたということになる。これはキリスト教的な話と日食が組み合わさった話なのではないだろうか。

その意味では、今日の神社神道の根幹は秦氏がすべて整備したものであるようだ。神道だけではなく、仏教の浄土宗を開いた「法然」の母は秦氏であり、真言密教を日本に伝えた「空海」の弟子たちや金銭的支援者も秦氏で、天台密教の拠点である比叡山は秦氏が押さえていた。

安倍晴明で有名な陰陽道や役行者で有名な修験道も秦氏が関与していたという。日本の宗教や習俗には秦氏が関与してきたことは歴史的にも事実である。日本人の信仰基盤を整備したのは秦氏なのである。その影響はキリスト教まで及んでいた。

三位一体鳥居を建設した秦氏は古代キリスト教徒あるいは景教徒だった可能性が高い。秦氏の族長を意味する「太秦」は通常はウズマサとは読まないが、佐伯博士によると、これはヘブライ語で「光の賜物」という意味だという。

しかも「太秦」は「大秦」とも表記することがあり、これは中国語で「ローマ帝国」を意味する。中国に景教が伝わったときに、そのルーツがローマ帝国であるということで「大秦景教」とも呼ばれ、教会は「大秦寺」と称された。

日本でいう「太秦寺」は秦氏の氏寺として知られている広隆寺の別名でもある。ここまで来れば「秦氏」は景教徒だったということになるが、彼らは単なるクリスチャンではなかったようなのだ。広隆寺の近くに秦氏が創建した「大酒神社」がある。
今では大酒と表記されているが、かつては「大辟」だった。どんな意味かというと死刑の意味だという。

また、この大酒神社は京都の他にも兵庫県の赤穂地方にも数多く分布していて、こちらの表記は「大避神社」と表記されている場所もあり、文書によっては「大僻大明神」と表記しているケースもある。この辟という文字を核に違う偏がついている。

これを景教経典では「大闢(ダイビャク)」という名を持つ人物が登場する。この大闢とは、古代イスラエル王国のメシアである「ダビデ王」のことなのだという。
すなわち、大僻大明神とはダビデ王のことだったのである。秦氏は大酒神社にて大僻大明神を祖人として祀っているということは、秦氏はダビデを祖先として祀っていることになる。

もしかしたら秦氏はダビデの子孫或いは古代ユダヤ人(アジア系)の血を引く者ということになる。更に、かつて広隆寺の境内にあった「伊佐良井(いさらい)」もまた、佐伯博士は「イスラエルの井戸」だと解釈する。
パレスチナ地方には「ヤコブの井戸」と称する井戸があるが、この名はアブラハムの孫ヤコブにちなんでおり、ヤコブの別名はイスラエルという。

よって、井戸にイスラエルという言葉をもじってつけるのはユダヤ人しか考えられない。確信を得た佐伯博士は明治41年、学会誌「地理歴史」にて「太秦を論ず」という論文を発表。

秦氏の正体はユダヤ系景教徒であると主張し、学会に大衝撃を与えた。そして、後に大和朝廷は「騎馬民族征服王朝」だったという論文を発表した江上波夫名誉教授は、かつて佐伯博士の門下生だった。

日ユ同祖論において重要な鍵を握っている秦氏だが、景教徒がネストリウス派だとした場合、異端として追放されたのは451年ですから、2~3世紀には秦氏は既に朝鮮半島に根を下ろして生活していたので年代が合わない。

実は中国で景教というものは幅広い意味を成すことがわかった。アジア全土に広がった原始キリスト教も中国では景教と呼ばれていたというのだ。

このことは、原始キリスト教はイエス・キリストが直接、弟子たちや現地人に教えていた信仰であり、そのときはカトリックやギリシャ正教やプロテスタントという派閥は無く、ましてやプロテスタントが正統教義として主張する三位一体という思想は当時の欧州には無かったのです。

キリストが生きた時代に、法皇や枢機卿や大司教や司教なんて階位があったでしょうか?当時は、そんなものは決して存在しませんでした。イエス・キリストの死後、ローマ帝国に布教されてヨーロッパに広がっていったときにキリスト教を政治的に利用しようとした連中が商売の便宜上、偉そうな階位を勝手にでっち上げただけなのです。

挙句の果ては政治と教会が結託し「免罪符」などという詐欺的紙切れを販売して民衆から搾取していました。政治権力に利用されて聖書も一部が改竄され、今のキリスト教はイエスの教えから大きく逸脱し歪んでいった。

話を戻します。問題はユダヤ人で、秦氏がユダヤ人だったとすれば彼らはイエスが直接布教していた時の「原始キリスト教徒」であり、イエスの12使徒の直系であったかもしれない。

イエスの死後、カトリック教会が整備されてローマ帝国の国教となって偶像崇拝化と変化して各地に広がっていく中で徐々に失われていった根本的な教義や信仰を秦氏たちが継承している可能性がある。

秦氏が信仰していたとされる原始キリスト教とは何だったのか。実際問題として、イエス・キリストが布教していた時代はキリスト教というものは存在せず、「聖書」といえば「旧約聖書」であった。ということはイエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であったのです。

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