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カテゴリ: イエス・キリスト

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「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」(ヨハネ14:21a)

「イエスは彼に答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。』」(ヨハネ14:23a)

「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(ヨハネ14:24)



「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(第一ヨハネ5:3)

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大乗仏教に見られる キリスト教の影響 仏教は、インドに伝わった東方キリスト教から大きな影響を受けた インド、チェンナイ(旧マドラス)にある使徒トマスの墓。 トマスはインドで伝道をし、キリスト教はインドに広まった  仏教に対するキリスト教の影響について、もう少しくわしく見ておきましょう。  仏教と言えば、よく知られているように「小乗仏教」と「大乗仏教」があります。 「小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教諸派の総称で、現在もセイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナなどに見られる仏教です。  一方、「大乗仏教」は、旧来の小乗仏教が個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と成仏の教義を説き、一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。 大乗非仏論  さて、この大乗仏教について、 「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」  と言う「大乗非仏(だいじょうひぶつ)論」が、広く学者の間で論議されています。実際、大乗仏教の教えを検討してみるならば、シャカの直説とは言えない教えが数々混入していることは明らかです。  シャカは、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説いた人でした。彼は、この世界も、苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。彼の思想は、もともと無神論で、神、あるいは神的存在者に関する思想は持っていませんでした。  ところが大乗仏教になると、「大日如来」(大ビルシャナ仏)とか「阿弥陀仏」とかいうような"神的存在者"が出てきます。 「大日如来」とは、「光明があまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人でも極楽に往生できる、と説かれたのです。  また大乗仏教には、「浄土」とか「仏国土」という思想があります。「浄土」(仏国土)は、キリスト教で言えば「天国」です。「浄土」の思想は、もともとシャカの教え、すなわち原始仏教にはなかったものです。  また、小乗仏教においては、この世界の事物は「空」(無我)であり「無常」であるという世界観にほとんど終始していたのに対し、大乗仏教になると、変化きわまりない「無常」の世界の奥に、さらに「常住なるもの」(変わりなく存在するもの)を捉えようとします。すなわち大乗仏教になると、移り変わる物事の奥に、"永遠的なもの"を探ろうとするのです。  また、大乗仏教の一派である浄土宗などになると、もともと原始仏教にはなかった「罪」の概念が、盛んに言われるようになります。例えば、親鸞は人間の持つ「罪」というものを強く意識した人ですし、寺の中にも「懺悔滅罪(ざんげめつざい)寺」と呼ばれるものが現われました。 「法華滅罪寺」(奈良市)  さらに大乗仏教には、末法思想と呼ばれる歴史観、および「弥勒」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰があります。この思想によると、シャカの死後長くたった現代は"末法の世"で、シャカの教えが実行されず、世も乱れる時代であるとされています。けれども将来、「弥勒」と呼ばれる仏がこの世に現れて、シャカの教えに漏れた人々を救う、という信仰があるのです。  これは言わば、"救い主が将来この世に現れて、人々を救う"という信仰です。このような思想は、もともと原始仏教にはなかったものなのに、いったいどこからきたのでしょうか。 そこにはキリスト教等の影響が……  このように大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。  これらの思想は、キリスト教の知識を持っている人ならだれでもすぐわかるように、キリスト教の思想に、あまりによく似ています。実際、仏教史学の権威エリザベス・ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、 「(弥勒の原語である)インドのマイトレィアは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストである」  と結論しています。ヘブル語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったのです。  また阿弥陀仏についても、仏教史学の権威アルティ氏は、 「阿弥陀仏の教義は……インドでつくられたものではない。中国仏教は、カシュミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」  と述べています。  また聖書には、 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」(コリント人への手紙第二、四・一八)  とあり、変化きわまりない世界の奥に、永遠なるものを見ています。大乗仏教が「常住なるもの」を強調するようになった背景にも、こうした聖書の思想の影響があったに違いありません。 ミロクは、インドのマイトレイアに由来するが、 マイトレイアはヘブル語のメシアから来たものである 仏教は混合宗教  では、歴史的にはどのようにして、キリスト教の思想が大乗仏教の思想の中に混入していったのでしょうか。  紀元一世紀に、イエス・キリストの十二弟子の一人トマスは、キリストの昇天後、中国およびインド地方に伝道に行き、インドで殉教したと伝えられています。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。  したがって、大乗仏教「八宗の祖」と言われるインドの「龍樹(りゅうじゅ)」(紀元一五〇~二五〇年頃)が、キリスト教思想に触れたことは、確実とみられます。  彼は「龍宮」で法華経を授けられ、その後「南天の鉄塔中で、金剛薩た(「た」の漢字は「土へん+垂」)(こんごうさった)から大日如来に関する経典「大日経」を授かったと主張しています。  しかし龍樹は、その「龍宮」や「南天の鉄塔」がどこにあるかを語らないし、また、いかにしてそのような神秘的な経典授与がなされたかについても語りません。また『神道と仏教とをただす』(ニューライフ出版社)の著者・森山諭師が述べているように、龍樹が授かったとする大日経も、その内容は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教であることが、歴然としています。  したがってこれらの経典が、誰から授けられたにしても、あるいは龍樹自身の創作によるものであったにしても、彼以後、仏教思想は大きく変貌したのです。  また龍樹は経典を授けられた際、金剛薩た(「た」は「土へん+垂」)から「潅頂」(かんじょう)を受けたとされていますが、これは頭に水をかける儀式で、彼以前の仏教にはなかったものです。龍樹は、おそらくキリスト教の洗礼をまねて、こうした儀式を取り入れたのでしょう。  その後も、"他の宗教思想の影響を受けて常に変化していく"という仏教の混合宗教としての性格は引き継がれていきました。  中国では唐の時代に、「景教(けいきょう)」(ネストリウス派キリスト教)が伝えられ、その信仰が広まっていました。六三五年に、ネストリウス派キリスト教徒アラボンは、二一人の信徒を率いて中国に渡り、聖書や教理を漢文に訳して、唐の皇帝(太宋)に献納しました。皇帝は、それを読んで感激し、 「これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕(私)自ら信じるから、全国民よ、朕に学べ」  と命じました。このネストリウス派キリスト教が「景教」で、景教は七世紀から一二世紀にかけて、中国で栄えました。 景教流行碑(中国、西安)。 唐の時代の中国で景教は流行した。  日本に景教が正式に伝えられたのは八世紀で、この時より朝廷の記録に、景教の用語である「景福」という言葉が出てくるようになります。またこの時より、もともと仏教にはない「滅罪」思想がうたわれた「懺悔滅罪寺」が現れます。これは、キリスト教の影響でしょう。  今も毎年宮中で演奏される雅楽の「越天楽」(えてんらく)は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言しています。  さて、九世紀に「空海」は、中国(唐)へ渡って真言密教を学びましたが、この「真言密教」は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者(不空三蔵)のいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたのです。  真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としています。  空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会がありました。空海は、景教徒の般若三蔵(はんにゃさんぞう)という人物に会い、景教の知識を吸収しました。般若三蔵は、「大秦寺」(だいしんじ)という景教の教会を営んでいた人物です(大秦とはローマ帝国のこと)。  詳細は省きますが、空海は彼とかなりの議論をしました。とくに絶対者をめぐっての論争です。さらに、実在する救い主は誰かという論になったとき、空海は、 「それは仏陀だ」  と言いました。それに対し般若三蔵は、 「違う、イエスだ」  と反論しました。こうして空海は、キリスト教についてかなりの知識を吸収したのです。  もしこのとき、般若三蔵の個人伝道が成功していたら、日本の歴史は変わっていたかも知れません。しかし彼のキリスト教伝道は成功せず、空海はクリスチャンにはなりませんでした。  というのは、残念なことに般若三蔵は、純粋なキリスト教的考えの持ち主ではなかったのです。彼は、旧約聖書は般若心経と同根の経典だという考えを持っていました。混合宗教的な面が彼自身にあったのです。  般若三蔵は、空海にそのことも述べました。これを聞いた空海は、表向きにはキリスト教徒になりませんでしたが、以来、空海の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになりました。  また空海は、般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいた景教の僧「景浄」にも会ったに違いないことは、ほとんどの学者の間で意見が一致しています。空海は中国で「マタイの福音書」や十戒、その他キリスト教文書を得たであろう、という学者もいます。  さらに空海は「潅頂」(キリスト教で言う洗礼)を受けましたが、彼には「遍照金剛」という潅頂名が与えられました。「遍照」とは"広く照らす"の意味で、これは聖書「マタイの福音書」五章一六節の、 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」  の漢語から取ったものだと言われています。  また、空海の開いた真言宗の本山である高野山で、多数の聖書が読まれたことも、明らかにされています。しかし、空海は、日本の稲荷神社さえ信じた混合宗教者であったため、キリスト教の教えさえも純粋な形では伝えられなかったのです。  空海は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。 「悲嘆するなかれ。われは……弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに侍するために、入定(死ぬ)するが、五六億七〇〇〇万年ののち、弥勒と共にふたたび地上にまみえん」(仏教では、弥勒が現われるのは五六億七〇〇〇万年の未来とされている)  将来人々を救いに来るという「弥勒」の来臨の時に、自分も復活するというこの信仰は、まさに、"キリストが再来するときにクリスチャンは復活する"というキリスト教信仰と同じものです。  さらに、一〇世紀になると「称名念仏」の信仰が広まり始め、一二世紀には、法然や親鸞が「南無阿弥陀仏」の念仏を大衆化しました。  「南無」とは、「帰依する」とか「信仰する」という意味で、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏を信じます」とか「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。法然や親鸞は、この念仏を唱えるならば、誰でも浄土(キリスト教でいう天国)に生まれることができ、救われると説いたのです。  こうして仏教思想が、"神的存在者(阿弥陀仏)の名を唱え、信仰を表明するならば、誰でも救われる"というかたちになっていったのは、聖書「使徒の働き」二章二一節の、 「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」  というキリスト教信仰が、様々なプロセスを経て、仏教思想に影響を及ぼしていった結果にほかなりません。  仏教思想は、その他さまざまな人物、状況を通して変貌していきました。  もともと「無我」(無霊魂)を標榜して立っていた仏教は、いつのまにか「我」(霊魂)を認めるようになり、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったのです。  このように仏教は、明らかに混合宗教なのです。 久保有政著 【参考: 仏教化されたキリストの復活・昇天の絵】  下の写真は、仏教研究家E・E・ゴルドン氏によって紹介された仏教画で、中国から伝来したものである。この絵は昔、法然上人によって発見されたとの伝説があり、京都市黒谷の永観堂(あるいは真如堂?)に保存されている。  絵は上中下の3段から成り、下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、釈迦の弟子の阿難陀と語っている。  中段では、一同が空虚な墓の前へ行っている。  そして上段では聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいるのである。  かつて仏教の僧侶をやめてキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠(みちはたたいせい)師は、この絵について、  「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」  と述べている。  キリストの使徒トマスは、インド・中国方面に伝道に行ったと伝えられている。この絵はおそらく、使徒トマスが復活のキリストにお会いした時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものだろう。すなわち使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのである。

大乗仏教に見られる キリスト教の影響 仏教は、インドに伝わった東方キリスト教から大きな影響を受けた インド、チェンナイ(旧マドラス)にある使徒トマスの墓。 トマスはインドで伝道をし、キリスト教はインドに広まった  仏教に対するキリスト教の影響について、もう少しくわしく見ておきましょう。  仏教と言えば、よく知られているように「小乗仏教」と「大乗仏教」があります。 「小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教諸派の総称で、現在もセイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナなどに見られる仏教です。  一方、「大乗仏教」は、旧来の小乗仏教が個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と成仏の教義を説き、一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。 大乗非仏論  さて、この大乗仏教について、 「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」  と言う「大乗非仏(だいじょうひぶつ)論」が、広く学者の間で論議されています。実際、大乗仏教の教えを検討してみるならば、シャカの直説とは言えない教えが数々混入していることは明らかです。  シャカは、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説いた人でした。彼は、この世界も、苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。彼の思想は、もともと無神論で、神、あるいは神的存在者に関する思想は持っていませんでした。  ところが大乗仏教になると、「大日如来」(大ビルシャナ仏)とか「阿弥陀仏」とかいうような"神的存在者"が出てきます。 「大日如来」とは、「光明があまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人でも極楽に往生できる、と説かれたのです。  また大乗仏教には、「浄土」とか「仏国土」という思想があります。「浄土」(仏国土)は、キリスト教で言えば「天国」です。「浄土」の思想は、もともとシャカの教え、すなわち原始仏教にはなかったものです。  また、小乗仏教においては、この世界の事物は「空」(無我)であり「無常」であるという世界観にほとんど終始していたのに対し、大乗仏教になると、変化きわまりない「無常」の世界の奥に、さらに「常住なるもの」(変わりなく存在するもの)を捉えようとします。すなわち大乗仏教になると、移り変わる物事の奥に、"永遠的なもの"を探ろうとするのです。  また、大乗仏教の一派である浄土宗などになると、もともと原始仏教にはなかった「罪」の概念が、盛んに言われるようになります。例えば、親鸞は人間の持つ「罪」というものを強く意識した人ですし、寺の中にも「懺悔滅罪(ざんげめつざい)寺」と呼ばれるものが現われました。 「法華滅罪寺」(奈良市)  さらに大乗仏教には、末法思想と呼ばれる歴史観、および「弥勒」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰があります。この思想によると、シャカの死後長くたった現代は"末法の世"で、シャカの教えが実行されず、世も乱れる時代であるとされています。けれども将来、「弥勒」と呼ばれる仏がこの世に現れて、シャカの教えに漏れた人々を救う、という信仰があるのです。  これは言わば、"救い主が将来この世に現れて、人々を救う"という信仰です。このような思想は、もともと原始仏教にはなかったものなのに、いったいどこからきたのでしょうか。 そこにはキリスト教等の影響が……  このように大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。  これらの思想は、キリスト教の知識を持っている人ならだれでもすぐわかるように、キリスト教の思想に、あまりによく似ています。実際、仏教史学の権威エリザベス・ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、 「(弥勒の原語である)インドのマイトレィアは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストである」  と結論しています。ヘブル語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったのです。  また阿弥陀仏についても、仏教史学の権威アルティ氏は、 「阿弥陀仏の教義は……インドでつくられたものではない。中国仏教は、カシュミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」  と述べています。  また聖書には、 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」(コリント人への手紙第二、四・一八)  とあり、変化きわまりない世界の奥に、永遠なるものを見ています。大乗仏教が「常住なるもの」を強調するようになった背景にも、こうした聖書の思想の影響があったに違いありません。 ミロクは、インドのマイトレイアに由来するが、 マイトレイアはヘブル語のメシアから来たものである 仏教は混合宗教  では、歴史的にはどのようにして、キリスト教の思想が大乗仏教の思想の中に混入していったのでしょうか。  紀元一世紀に、イエス・キリストの十二弟子の一人トマスは、キリストの昇天後、中国およびインド地方に伝道に行き、インドで殉教したと伝えられています。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。  したがって、大乗仏教「八宗の祖」と言われるインドの「龍樹(りゅうじゅ)」(紀元一五〇~二五〇年頃)が、キリスト教思想に触れたことは、確実とみられます。  彼は「龍宮」で法華経を授けられ、その後「南天の鉄塔中で、金剛薩た(「た」の漢字は「土へん+垂」)(こんごうさった)から大日如来に関する経典「大日経」を授かったと主張しています。  しかし龍樹は、その「龍宮」や「南天の鉄塔」がどこにあるかを語らないし、また、いかにしてそのような神秘的な経典授与がなされたかについても語りません。また『神道と仏教とをただす』(ニューライフ出版社)の著者・森山諭師が述べているように、龍樹が授かったとする大日経も、その内容は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教であることが、歴然としています。  したがってこれらの経典が、誰から授けられたにしても、あるいは龍樹自身の創作によるものであったにしても、彼以後、仏教思想は大きく変貌したのです。  また龍樹は経典を授けられた際、金剛薩た(「た」は「土へん+垂」)から「潅頂」(かんじょう)を受けたとされていますが、これは頭に水をかける儀式で、彼以前の仏教にはなかったものです。龍樹は、おそらくキリスト教の洗礼をまねて、こうした儀式を取り入れたのでしょう。  その後も、"他の宗教思想の影響を受けて常に変化していく"という仏教の混合宗教としての性格は引き継がれていきました。  中国では唐の時代に、「景教(けいきょう)」(ネストリウス派キリスト教)が伝えられ、その信仰が広まっていました。六三五年に、ネストリウス派キリスト教徒アラボンは、二一人の信徒を率いて中国に渡り、聖書や教理を漢文に訳して、唐の皇帝(太宋)に献納しました。皇帝は、それを読んで感激し、 「これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕(私)自ら信じるから、全国民よ、朕に学べ」  と命じました。このネストリウス派キリスト教が「景教」で、景教は七世紀から一二世紀にかけて、中国で栄えました。 景教流行碑(中国、西安)。 唐の時代の中国で景教は流行した。  日本に景教が正式に伝えられたのは八世紀で、この時より朝廷の記録に、景教の用語である「景福」という言葉が出てくるようになります。またこの時より、もともと仏教にはない「滅罪」思想がうたわれた「懺悔滅罪寺」が現れます。これは、キリスト教の影響でしょう。  今も毎年宮中で演奏される雅楽の「越天楽」(えてんらく)は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言しています。  さて、九世紀に「空海」は、中国(唐)へ渡って真言密教を学びましたが、この「真言密教」は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者(不空三蔵)のいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたのです。  真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としています。  空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会がありました。空海は、景教徒の般若三蔵(はんにゃさんぞう)という人物に会い、景教の知識を吸収しました。般若三蔵は、「大秦寺」(だいしんじ)という景教の教会を営んでいた人物です(大秦とはローマ帝国のこと)。  詳細は省きますが、空海は彼とかなりの議論をしました。とくに絶対者をめぐっての論争です。さらに、実在する救い主は誰かという論になったとき、空海は、 「それは仏陀だ」  と言いました。それに対し般若三蔵は、 「違う、イエスだ」  と反論しました。こうして空海は、キリスト教についてかなりの知識を吸収したのです。  もしこのとき、般若三蔵の個人伝道が成功していたら、日本の歴史は変わっていたかも知れません。しかし彼のキリスト教伝道は成功せず、空海はクリスチャンにはなりませんでした。  というのは、残念なことに般若三蔵は、純粋なキリスト教的考えの持ち主ではなかったのです。彼は、旧約聖書は般若心経と同根の経典だという考えを持っていました。混合宗教的な面が彼自身にあったのです。  般若三蔵は、空海にそのことも述べました。これを聞いた空海は、表向きにはキリスト教徒になりませんでしたが、以来、空海の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになりました。  また空海は、般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいた景教の僧「景浄」にも会ったに違いないことは、ほとんどの学者の間で意見が一致しています。空海は中国で「マタイの福音書」や十戒、その他キリスト教文書を得たであろう、という学者もいます。  さらに空海は「潅頂」(キリスト教で言う洗礼)を受けましたが、彼には「遍照金剛」という潅頂名が与えられました。「遍照」とは"広く照らす"の意味で、これは聖書「マタイの福音書」五章一六節の、 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」  の漢語から取ったものだと言われています。  また、空海の開いた真言宗の本山である高野山で、多数の聖書が読まれたことも、明らかにされています。しかし、空海は、日本の稲荷神社さえ信じた混合宗教者であったため、キリスト教の教えさえも純粋な形では伝えられなかったのです。  空海は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。 「悲嘆するなかれ。われは……弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに侍するために、入定(死ぬ)するが、五六億七〇〇〇万年ののち、弥勒と共にふたたび地上にまみえん」(仏教では、弥勒が現われるのは五六億七〇〇〇万年の未来とされている)  将来人々を救いに来るという「弥勒」の来臨の時に、自分も復活するというこの信仰は、まさに、"キリストが再来するときにクリスチャンは復活する"というキリスト教信仰と同じものです。  さらに、一〇世紀になると「称名念仏」の信仰が広まり始め、一二世紀には、法然や親鸞が「南無阿弥陀仏」の念仏を大衆化しました。  「南無」とは、「帰依する」とか「信仰する」という意味で、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏を信じます」とか「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。法然や親鸞は、この念仏を唱えるならば、誰でも浄土(キリスト教でいう天国)に生まれることができ、救われると説いたのです。  こうして仏教思想が、"神的存在者(阿弥陀仏)の名を唱え、信仰を表明するならば、誰でも救われる"というかたちになっていったのは、聖書「使徒の働き」二章二一節の、 「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」  というキリスト教信仰が、様々なプロセスを経て、仏教思想に影響を及ぼしていった結果にほかなりません。  仏教思想は、その他さまざまな人物、状況を通して変貌していきました。  もともと「無我」(無霊魂)を標榜して立っていた仏教は、いつのまにか「我」(霊魂)を認めるようになり、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったのです。  このように仏教は、明らかに混合宗教なのです。 久保有政著 【参考: 仏教化されたキリストの復活・昇天の絵】  下の写真は、仏教研究家E・E・ゴルドン氏によって紹介された仏教画で、中国から伝来したものである。この絵は昔、法然上人によって発見されたとの伝説があり、京都市黒谷の永観堂(あるいは真如堂?)に保存されている。  絵は上中下の3段から成り、下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、釈迦の弟子の阿難陀と語っている。  中段では、一同が空虚な墓の前へ行っている。  そして上段では聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいるのである。  かつて仏教の僧侶をやめてキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠(みちはたたいせい)師は、この絵について、  「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」  と述べている。  キリストの使徒トマスは、インド・中国方面に伝道に行ったと伝えられている。この絵はおそらく、使徒トマスが復活のキリストにお会いした時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものだろう。すなわち使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのである。

大乗仏教に見られる キリスト教の影響 仏教は、インドに伝わった東方キリスト教から大きな影響を受けた インド、チェンナイ(旧マドラス)にある使徒トマスの墓。 トマスはインドで伝道をし、キリスト教はインドに広まった  仏教に対するキリスト教の影響について、もう少しくわしく見ておきましょう。  仏教と言えば、よく知られているように「小乗仏教」と「大乗仏教」があります。 「小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教諸派の総称で、現在もセイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナなどに見られる仏教です。  一方、「大乗仏教」は、旧来の小乗仏教が個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と成仏の教義を説き、一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。 大乗非仏論  さて、この大乗仏教について、 「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」  と言う「大乗非仏(だいじょうひぶつ)論」が、広く学者の間で論議されています。実際、大乗仏教の教えを検討してみるならば、シャカの直説とは言えない教えが数々混入していることは明らかです。  シャカは、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説いた人でした。彼は、この世界も、苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。彼の思想は、もともと無神論で、神、あるいは神的存在者に関する思想は持っていませんでした。  ところが大乗仏教になると、「大日如来」(大ビルシャナ仏)とか「阿弥陀仏」とかいうような"神的存在者"が出てきます。 「大日如来」とは、「光明があまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人でも極楽に往生できる、と説かれたのです。  また大乗仏教には、「浄土」とか「仏国土」という思想があります。「浄土」(仏国土)は、キリスト教で言えば「天国」です。「浄土」の思想は、もともとシャカの教え、すなわち原始仏教にはなかったものです。  また、小乗仏教においては、この世界の事物は「空」(無我)であり「無常」であるという世界観にほとんど終始していたのに対し、大乗仏教になると、変化きわまりない「無常」の世界の奥に、さらに「常住なるもの」(変わりなく存在するもの)を捉えようとします。すなわち大乗仏教になると、移り変わる物事の奥に、"永遠的なもの"を探ろうとするのです。  また、大乗仏教の一派である浄土宗などになると、もともと原始仏教にはなかった「罪」の概念が、盛んに言われるようになります。例えば、親鸞は人間の持つ「罪」というものを強く意識した人ですし、寺の中にも「懺悔滅罪(ざんげめつざい)寺」と呼ばれるものが現われました。 「法華滅罪寺」(奈良市)  さらに大乗仏教には、末法思想と呼ばれる歴史観、および「弥勒」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰があります。この思想によると、シャカの死後長くたった現代は"末法の世"で、シャカの教えが実行されず、世も乱れる時代であるとされています。けれども将来、「弥勒」と呼ばれる仏がこの世に現れて、シャカの教えに漏れた人々を救う、という信仰があるのです。  これは言わば、"救い主が将来この世に現れて、人々を救う"という信仰です。このような思想は、もともと原始仏教にはなかったものなのに、いったいどこからきたのでしょうか。 そこにはキリスト教等の影響が……  このように大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。  これらの思想は、キリスト教の知識を持っている人ならだれでもすぐわかるように、キリスト教の思想に、あまりによく似ています。実際、仏教史学の権威エリザベス・ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、 「(弥勒の原語である)インドのマイトレィアは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストである」  と結論しています。ヘブル語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったのです。  また阿弥陀仏についても、仏教史学の権威アルティ氏は、 「阿弥陀仏の教義は……インドでつくられたものではない。中国仏教は、カシュミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」  と述べています。  また聖書には、 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」(コリント人への手紙第二、四・一八)  とあり、変化きわまりない世界の奥に、永遠なるものを見ています。大乗仏教が「常住なるもの」を強調するようになった背景にも、こうした聖書の思想の影響があったに違いありません。 ミロクは、インドのマイトレイアに由来するが、 マイトレイアはヘブル語のメシアから来たものである 仏教は混合宗教  では、歴史的にはどのようにして、キリスト教の思想が大乗仏教の思想の中に混入していったのでしょうか。  紀元一世紀に、イエス・キリストの十二弟子の一人トマスは、キリストの昇天後、中国およびインド地方に伝道に行き、インドで殉教したと伝えられています。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。  したがって、大乗仏教「八宗の祖」と言われるインドの「龍樹(りゅうじゅ)」(紀元一五〇~二五〇年頃)が、キリスト教思想に触れたことは、確実とみられます。  彼は「龍宮」で法華経を授けられ、その後「南天の鉄塔中で、金剛薩た(「た」の漢字は「土へん+垂」)(こんごうさった)から大日如来に関する経典「大日経」を授かったと主張しています。  しかし龍樹は、その「龍宮」や「南天の鉄塔」がどこにあるかを語らないし、また、いかにしてそのような神秘的な経典授与がなされたかについても語りません。また『神道と仏教とをただす』(ニューライフ出版社)の著者・森山諭師が述べているように、龍樹が授かったとする大日経も、その内容は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教であることが、歴然としています。  したがってこれらの経典が、誰から授けられたにしても、あるいは龍樹自身の創作によるものであったにしても、彼以後、仏教思想は大きく変貌したのです。  また龍樹は経典を授けられた際、金剛薩た(「た」は「土へん+垂」)から「潅頂」(かんじょう)を受けたとされていますが、これは頭に水をかける儀式で、彼以前の仏教にはなかったものです。龍樹は、おそらくキリスト教の洗礼をまねて、こうした儀式を取り入れたのでしょう。  その後も、"他の宗教思想の影響を受けて常に変化していく"という仏教の混合宗教としての性格は引き継がれていきました。  中国では唐の時代に、「景教(けいきょう)」(ネストリウス派キリスト教)が伝えられ、その信仰が広まっていました。六三五年に、ネストリウス派キリスト教徒アラボンは、二一人の信徒を率いて中国に渡り、聖書や教理を漢文に訳して、唐の皇帝(太宋)に献納しました。皇帝は、それを読んで感激し、 「これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕(私)自ら信じるから、全国民よ、朕に学べ」  と命じました。このネストリウス派キリスト教が「景教」で、景教は七世紀から一二世紀にかけて、中国で栄えました。 景教流行碑(中国、西安)。 唐の時代の中国で景教は流行した。  日本に景教が正式に伝えられたのは八世紀で、この時より朝廷の記録に、景教の用語である「景福」という言葉が出てくるようになります。またこの時より、もともと仏教にはない「滅罪」思想がうたわれた「懺悔滅罪寺」が現れます。これは、キリスト教の影響でしょう。  今も毎年宮中で演奏される雅楽の「越天楽」(えてんらく)は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言しています。  さて、九世紀に「空海」は、中国(唐)へ渡って真言密教を学びましたが、この「真言密教」は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者(不空三蔵)のいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたのです。  真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としています。  空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会がありました。空海は、景教徒の般若三蔵(はんにゃさんぞう)という人物に会い、景教の知識を吸収しました。般若三蔵は、「大秦寺」(だいしんじ)という景教の教会を営んでいた人物です(大秦とはローマ帝国のこと)。  詳細は省きますが、空海は彼とかなりの議論をしました。とくに絶対者をめぐっての論争です。さらに、実在する救い主は誰かという論になったとき、空海は、 「それは仏陀だ」  と言いました。それに対し般若三蔵は、 「違う、イエスだ」  と反論しました。こうして空海は、キリスト教についてかなりの知識を吸収したのです。  もしこのとき、般若三蔵の個人伝道が成功していたら、日本の歴史は変わっていたかも知れません。しかし彼のキリスト教伝道は成功せず、空海はクリスチャンにはなりませんでした。  というのは、残念なことに般若三蔵は、純粋なキリスト教的考えの持ち主ではなかったのです。彼は、旧約聖書は般若心経と同根の経典だという考えを持っていました。混合宗教的な面が彼自身にあったのです。  般若三蔵は、空海にそのことも述べました。これを聞いた空海は、表向きにはキリスト教徒になりませんでしたが、以来、空海の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになりました。  また空海は、般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいた景教の僧「景浄」にも会ったに違いないことは、ほとんどの学者の間で意見が一致しています。空海は中国で「マタイの福音書」や十戒、その他キリスト教文書を得たであろう、という学者もいます。  さらに空海は「潅頂」(キリスト教で言う洗礼)を受けましたが、彼には「遍照金剛」という潅頂名が与えられました。「遍照」とは"広く照らす"の意味で、これは聖書「マタイの福音書」五章一六節の、 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」  の漢語から取ったものだと言われています。  また、空海の開いた真言宗の本山である高野山で、多数の聖書が読まれたことも、明らかにされています。しかし、空海は、日本の稲荷神社さえ信じた混合宗教者であったため、キリスト教の教えさえも純粋な形では伝えられなかったのです。  空海は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。 「悲嘆するなかれ。われは……弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに侍するために、入定(死ぬ)するが、五六億七〇〇〇万年ののち、弥勒と共にふたたび地上にまみえん」(仏教では、弥勒が現われるのは五六億七〇〇〇万年の未来とされている)  将来人々を救いに来るという「弥勒」の来臨の時に、自分も復活するというこの信仰は、まさに、"キリストが再来するときにクリスチャンは復活する"というキリスト教信仰と同じものです。  さらに、一〇世紀になると「称名念仏」の信仰が広まり始め、一二世紀には、法然や親鸞が「南無阿弥陀仏」の念仏を大衆化しました。  「南無」とは、「帰依する」とか「信仰する」という意味で、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏を信じます」とか「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。法然や親鸞は、この念仏を唱えるならば、誰でも浄土(キリスト教でいう天国)に生まれることができ、救われると説いたのです。  こうして仏教思想が、"神的存在者(阿弥陀仏)の名を唱え、信仰を表明するならば、誰でも救われる"というかたちになっていったのは、聖書「使徒の働き」二章二一節の、 「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」  というキリスト教信仰が、様々なプロセスを経て、仏教思想に影響を及ぼしていった結果にほかなりません。  仏教思想は、その他さまざまな人物、状況を通して変貌していきました。  もともと「無我」(無霊魂)を標榜して立っていた仏教は、いつのまにか「我」(霊魂)を認めるようになり、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったのです。  このように仏教は、明らかに混合宗教なのです。 久保有政著 【参考: 仏教化されたキリストの復活・昇天の絵】  下の写真は、仏教研究家E・E・ゴルドン氏によって紹介された仏教画で、中国から伝来したものである。この絵は昔、法然上人によって発見されたとの伝説があり、京都市黒谷の永観堂(あるいは真如堂?)に保存されている。  絵は上中下の3段から成り、下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、釈迦の弟子の阿難陀と語っている。  中段では、一同が空虚な墓の前へ行っている。  そして上段では聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいるのである。  かつて仏教の僧侶をやめてキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠(みちはたたいせい)師は、この絵について、  「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」  と述べている。  キリストの使徒トマスは、インド・中国方面に伝道に行ったと伝えられている。この絵はおそらく、使徒トマスが復活のキリストにお会いした時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものだろう。すなわち使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのである。

大乗仏教に見られる キリスト教の影響 仏教は、インドに伝わった東方キリスト教から大きな影響を受けた インド、チェンナイ(旧マドラス)にある使徒トマスの墓。 トマスはインドで伝道をし、キリスト教はインドに広まった  仏教に対するキリスト教の影響について、もう少しくわしく見ておきましょう。  仏教と言えば、よく知られているように「小乗仏教」と「大乗仏教」があります。 「小乗仏教」(上座部仏教)とは、大乗仏教成立以前の仏教諸派の総称で、現在もセイロン、タイ、ミャンマー(旧ビルマ)、インドシナなどに見られる仏教です。  一方、「大乗仏教」は、旧来の小乗仏教が個人的解脱の教えであるのに対し、広く人間の全般的救済と成仏の教義を説き、一~二世紀頃に成立しました。中国、日本などに伝わった仏教は、大乗仏教です。 大乗非仏論  さて、この大乗仏教について、 「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」  と言う「大乗非仏(だいじょうひぶつ)論」が、広く学者の間で論議されています。実際、大乗仏教の教えを検討してみるならば、シャカの直説とは言えない教えが数々混入していることは明らかです。  シャカは、長い苦行の末に「悟り」を開き、一切のものは空(無我)であると説いた人でした。彼は、この世界も、苦も、生も、死も、すべては空であり、実体のないものであると説いたのです。彼の思想は、もともと無神論で、神、あるいは神的存在者に関する思想は持っていませんでした。  ところが大乗仏教になると、「大日如来」(大ビルシャナ仏)とか「阿弥陀仏」とかいうような"神的存在者"が出てきます。 「大日如来」とは、「光明があまねく一切を照らす」という意味で、宇宙の実相を霊化した存在者です。また「阿弥陀仏」とは、極楽浄土に住むとされる神的存在者で、この仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば、どんな人でも極楽に往生できる、と説かれたのです。  また大乗仏教には、「浄土」とか「仏国土」という思想があります。「浄土」(仏国土)は、キリスト教で言えば「天国」です。「浄土」の思想は、もともとシャカの教え、すなわち原始仏教にはなかったものです。  また、小乗仏教においては、この世界の事物は「空」(無我)であり「無常」であるという世界観にほとんど終始していたのに対し、大乗仏教になると、変化きわまりない「無常」の世界の奥に、さらに「常住なるもの」(変わりなく存在するもの)を捉えようとします。すなわち大乗仏教になると、移り変わる物事の奥に、"永遠的なもの"を探ろうとするのです。  また、大乗仏教の一派である浄土宗などになると、もともと原始仏教にはなかった「罪」の概念が、盛んに言われるようになります。例えば、親鸞は人間の持つ「罪」というものを強く意識した人ですし、寺の中にも「懺悔滅罪(ざんげめつざい)寺」と呼ばれるものが現われました。 「法華滅罪寺」(奈良市)  さらに大乗仏教には、末法思想と呼ばれる歴史観、および「弥勒」と呼ばれる未来の救い主に対する信仰があります。この思想によると、シャカの死後長くたった現代は"末法の世"で、シャカの教えが実行されず、世も乱れる時代であるとされています。けれども将来、「弥勒」と呼ばれる仏がこの世に現れて、シャカの教えに漏れた人々を救う、という信仰があるのです。  これは言わば、"救い主が将来この世に現れて、人々を救う"という信仰です。このような思想は、もともと原始仏教にはなかったものなのに、いったいどこからきたのでしょうか。 そこにはキリスト教等の影響が……  このように大乗仏教には、「大日如来」や「阿弥陀仏」というような神的存在者の思想、「浄土」の思想、「常住なるもの」の思想、、「罪」の思想、「弥勒菩薩」の思想など、もともと原始仏教にはなかった思想が、数々混入しています。  これらの思想は、キリスト教の知識を持っている人ならだれでもすぐわかるように、キリスト教の思想に、あまりによく似ています。実際、仏教史学の権威エリザベス・ゴードン女史は、例えば弥勒菩薩について、その語源を調べた結果、 「(弥勒の原語である)インドのマイトレィアは、中国ではミレフ、日本ではミロクで、これはヘブル語のメシア、ギリシャ語のキリストである」  と結論しています。ヘブル語の「メシア」が、インドでは「マイトレィア」、中国では「ミレフ」、日本では「ミロク」となったのです。  また阿弥陀仏についても、仏教史学の権威アルティ氏は、 「阿弥陀仏の教義は……インドでつくられたものではない。中国仏教は、カシュミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター教とキリスト教に起因する」  と述べています。  また聖書には、 「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづく」(コリント人への手紙第二、四・一八)  とあり、変化きわまりない世界の奥に、永遠なるものを見ています。大乗仏教が「常住なるもの」を強調するようになった背景にも、こうした聖書の思想の影響があったに違いありません。 ミロクは、インドのマイトレイアに由来するが、 マイトレイアはヘブル語のメシアから来たものである 仏教は混合宗教  では、歴史的にはどのようにして、キリスト教の思想が大乗仏教の思想の中に混入していったのでしょうか。  紀元一世紀に、イエス・キリストの十二弟子の一人トマスは、キリストの昇天後、中国およびインド地方に伝道に行き、インドで殉教したと伝えられています。実際インドでは、すでに二世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、三世紀にはキリスト教の団体もありました。  したがって、大乗仏教「八宗の祖」と言われるインドの「龍樹(りゅうじゅ)」(紀元一五〇~二五〇年頃)が、キリスト教思想に触れたことは、確実とみられます。  彼は「龍宮」で法華経を授けられ、その後「南天の鉄塔中で、金剛薩た(「た」の漢字は「土へん+垂」)(こんごうさった)から大日如来に関する経典「大日経」を授かったと主張しています。  しかし龍樹は、その「龍宮」や「南天の鉄塔」がどこにあるかを語らないし、また、いかにしてそのような神秘的な経典授与がなされたかについても語りません。また『神道と仏教とをただす』(ニューライフ出版社)の著者・森山諭師が述べているように、龍樹が授かったとする大日経も、その内容は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教であることが、歴然としています。  したがってこれらの経典が、誰から授けられたにしても、あるいは龍樹自身の創作によるものであったにしても、彼以後、仏教思想は大きく変貌したのです。  また龍樹は経典を授けられた際、金剛薩た(「た」は「土へん+垂」)から「潅頂」(かんじょう)を受けたとされていますが、これは頭に水をかける儀式で、彼以前の仏教にはなかったものです。龍樹は、おそらくキリスト教の洗礼をまねて、こうした儀式を取り入れたのでしょう。  その後も、"他の宗教思想の影響を受けて常に変化していく"という仏教の混合宗教としての性格は引き継がれていきました。  中国では唐の時代に、「景教(けいきょう)」(ネストリウス派キリスト教)が伝えられ、その信仰が広まっていました。六三五年に、ネストリウス派キリスト教徒アラボンは、二一人の信徒を率いて中国に渡り、聖書や教理を漢文に訳して、唐の皇帝(太宋)に献納しました。皇帝は、それを読んで感激し、 「これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕(私)自ら信じるから、全国民よ、朕に学べ」  と命じました。このネストリウス派キリスト教が「景教」で、景教は七世紀から一二世紀にかけて、中国で栄えました。 景教流行碑(中国、西安)。 唐の時代の中国で景教は流行した。  日本に景教が正式に伝えられたのは八世紀で、この時より朝廷の記録に、景教の用語である「景福」という言葉が出てくるようになります。またこの時より、もともと仏教にはない「滅罪」思想がうたわれた「懺悔滅罪寺」が現れます。これは、キリスト教の影響でしょう。  今も毎年宮中で演奏される雅楽の「越天楽」(えてんらく)は、「ペルシャから伝わった景教の音楽です」と日本雅楽会会長・押田久一氏は断言しています。  さて、九世紀に「空海」は、中国(唐)へ渡って真言密教を学びましたが、この「真言密教」は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者(不空三蔵)のいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたのです。  真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としています。  空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会がありました。空海は、景教徒の般若三蔵(はんにゃさんぞう)という人物に会い、景教の知識を吸収しました。般若三蔵は、「大秦寺」(だいしんじ)という景教の教会を営んでいた人物です(大秦とはローマ帝国のこと)。  詳細は省きますが、空海は彼とかなりの議論をしました。とくに絶対者をめぐっての論争です。さらに、実在する救い主は誰かという論になったとき、空海は、 「それは仏陀だ」  と言いました。それに対し般若三蔵は、 「違う、イエスだ」  と反論しました。こうして空海は、キリスト教についてかなりの知識を吸収したのです。  もしこのとき、般若三蔵の個人伝道が成功していたら、日本の歴史は変わっていたかも知れません。しかし彼のキリスト教伝道は成功せず、空海はクリスチャンにはなりませんでした。  というのは、残念なことに般若三蔵は、純粋なキリスト教的考えの持ち主ではなかったのです。彼は、旧約聖書は般若心経と同根の経典だという考えを持っていました。混合宗教的な面が彼自身にあったのです。  般若三蔵は、空海にそのことも述べました。これを聞いた空海は、表向きにはキリスト教徒になりませんでしたが、以来、空海の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになりました。  また空海は、般若三蔵に紹介されて、すぐ近くに住んでいた景教の僧「景浄」にも会ったに違いないことは、ほとんどの学者の間で意見が一致しています。空海は中国で「マタイの福音書」や十戒、その他キリスト教文書を得たであろう、という学者もいます。  さらに空海は「潅頂」(キリスト教で言う洗礼)を受けましたが、彼には「遍照金剛」という潅頂名が与えられました。「遍照」とは"広く照らす"の意味で、これは聖書「マタイの福音書」五章一六節の、 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」  の漢語から取ったものだと言われています。  また、空海の開いた真言宗の本山である高野山で、多数の聖書が読まれたことも、明らかにされています。しかし、空海は、日本の稲荷神社さえ信じた混合宗教者であったため、キリスト教の教えさえも純粋な形では伝えられなかったのです。  空海は、死に就こうとするとき、弟子たちに次のように語りました。 「悲嘆するなかれ。われは……弥勒菩薩(みろくぼさつ)のそばに侍するために、入定(死ぬ)するが、五六億七〇〇〇万年ののち、弥勒と共にふたたび地上にまみえん」(仏教では、弥勒が現われるのは五六億七〇〇〇万年の未来とされている)  将来人々を救いに来るという「弥勒」の来臨の時に、自分も復活するというこの信仰は、まさに、"キリストが再来するときにクリスチャンは復活する"というキリスト教信仰と同じものです。  さらに、一〇世紀になると「称名念仏」の信仰が広まり始め、一二世紀には、法然や親鸞が「南無阿弥陀仏」の念仏を大衆化しました。  「南無」とは、「帰依する」とか「信仰する」という意味で、「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀仏を信じます」とか「阿弥陀仏に帰依します」という意味です。法然や親鸞は、この念仏を唱えるならば、誰でも浄土(キリスト教でいう天国)に生まれることができ、救われると説いたのです。  こうして仏教思想が、"神的存在者(阿弥陀仏)の名を唱え、信仰を表明するならば、誰でも救われる"というかたちになっていったのは、聖書「使徒の働き」二章二一節の、 「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」  というキリスト教信仰が、様々なプロセスを経て、仏教思想に影響を及ぼしていった結果にほかなりません。  仏教思想は、その他さまざまな人物、状況を通して変貌していきました。  もともと「無我」(無霊魂)を標榜して立っていた仏教は、いつのまにか「我」(霊魂)を認めるようになり、しかも有神論と未来的生命を唱え出し、「自力」を改めて「他力」となし、「未来往生成仏説」を説くようになったのです。  このように仏教は、明らかに混合宗教なのです。 久保有政著 【参考: 仏教化されたキリストの復活・昇天の絵】  下の写真は、仏教研究家E・E・ゴルドン氏によって紹介された仏教画で、中国から伝来したものである。この絵は昔、法然上人によって発見されたとの伝説があり、京都市黒谷の永観堂(あるいは真如堂?)に保存されている。  絵は上中下の3段から成り、下段では達磨(頭に布をかぶっている人物)が、釈迦の弟子の阿難陀と語っている。  中段では、一同が空虚な墓の前へ行っている。  そして上段では聖者が後光を放ち、雲に乗って昇天するのを、一同が拝んでいるのである。  かつて仏教の僧侶をやめてキリスト教の牧師になった経歴を持つ道籏泰誠(みちはたたいせい)師は、この絵について、  「これは言うまでもなく、キリストの復活・昇天の絵を仏教化したものだ」  と述べている。  キリストの使徒トマスは、インド・中国方面に伝道に行ったと伝えられている。この絵はおそらく、使徒トマスが復活のキリストにお会いした時の体験を人々に語っている光景を、仏教化したものだろう。すなわち使徒トマスが達磨に置き換えられ、仏教画に作り替えられているのである。

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