Paul Delon's Film Festa

ポールドロン・エンターテインメント公式ログ

September 2020

 南山を麓まで下った。
 南山は古くから人々が住みついていた。その中腹には仏教徒が祈りの時に使用する、線香を生産する手工業があった。
 山幅は広く、Y川に沿って広がっている。Y川は南山を背にすると右が上流となる。トラッカーらがよく使う道路もY川に沿っている。Y川上流の方向へ向かえば北熊本(アッパー熊本)に行ける。
 南山の麓から三つの道に分かれる。右へ行くと山深く、シャーロック・ホームズとモリアーティが決闘した断崖のような光景がある。左へ行くとY川の下流へ向かって進むことになる。こちらはうっそうとした南米的ジャングルのような道になっている。かつて、この道の入り口には遊郭があったという。もう少し進むと映画『キャット・ピープル』の舞台のように、猫の一族がたむろしている木々が現れる。この道は散歩するには面白い。その先に『南城の古塔』と呼ばれる遺跡が在り、そこから向こうがトラッカーたちの集荷場。(『南城の古塔』は『南総里見八犬伝』に登場しそうな雰囲気。)

 三つ又の中央を行くと、ミドルスクールが在る。その脇からキャスルヒルへの登山道に入れる。キャスルヒルの歴史は古く、ブラックウッド・エリアの歴史的キリシタン大名であった田中バルトロメオの時代に遡る事が出来る。
 登山道を登っていく。
 ブラックウッドの人口が近年著しく減少した為、登山者も減りキャスルヒルのかなりの面積が原生林に還ろうとしていた。
 だが、原生林の奥に、誰が造ったのか、・・・チャペルを見つけた。

 『聖マザーテレサチャペル ブラックウッド』、そう書かれていた。


 そうだ。
 私は、自分の頭の中で友人から聞いた噂話の『クレーター』を空想していただけだったのかもしれない。このキャンプ場を使った思い出もない。だが、このキャンプ場でキャンプをした、という空想を頭の中で構築していたのだ。なぜか?
 そう、私はあのキャンプに行けなかったのだ。私の他の全ての同級生が参加したキャンプだったのだが・・・。私は行けなかった。当時通っていた学習塾の合宿があったからだ。つぎの日、学校でキャンプでの出来事を友人らから聞き、行けなかった事が悲しくなった・・・。すごく楽しかったらしい。それは、私のエレメンタリースクール時代の『何かの欠落』となった。
 その後、同級生の友人らとの関係は、なんとなくよそよそしいものになっていった。
 『彼ら』と『私(ぼく)』という隔絶された雰囲気がどこか漂った。
 私は『欠落』を補完するように、友人らのお喋りからの情報を空想によって再構築し、『想像上のキャンプの記憶』を脳内につくりだしたのであった。
 私の真剣さが、その記憶をいっそうリアルなものにした。子供が何かに真剣になるとき、恐るべき力を発揮するものなのだ。

 湖を見ながら、私はあの時代に私が感じていた事をリコールした。

 つまり、この湖が隕石で出来たクレーターであるという確証は私には無いのだ。
 だが、この湖には何か得体のしれない空気が漂って居る・・・。

 ブラックウッドは太古から宇宙の神秘と無縁ではない。近隣の村には『天翔ける舟』が降りて来ていたとされる大岩もある。其の村には天文台が在るのだが、宇宙からの訪問者がそこで何度も目撃されたという情報もある。

 しばし岸から湖面を眺めたあと、私はそこを去り再びパジェロミニに乗り込んだ。
 東山(通称キャスルヒル)へ向かう為だ。ダッシュボードに数日前に買って忘れていたミルキーチョコが入っていた。疲れた頭には丁度良い。

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 友人が描いた、其の中華拉麺店店主の正体はリトルグレイそっくりだった、頭部が平たい事を除いて・・・。へんなイラストだったが、妙なリアリティもあった。
 そして、さっきの少女が一瞬見せた顔、・・・あの思い出の似顔絵イラストを彷彿させるものだった。

 そんな風に私のパジェロミニは、少女が居た小川の辺りを走り過ぎた。だが、バックミラーで確認すると少女の姿は無かった。

 そのまま私はクレーターのある南山の山頂ゾーンへ向かった。
 このゾーンでは、あの歴史的日本八十年代後期バブル経済期間に大規模年金保養施設建設の為の山地造成が成され、当時流行ったハコもの建設が施工された。
 それらの半分以上が今は廃墟となっている。

 その原因はメテオ・インパクト。つまり隕石落下が南山の向う側で起きたから。
 この隕石はさほど大きいものではなかったが、宇宙からの落下の衝撃で直径二五〇メートルのクレーターを形成するには充分だった。
 そんな事があったことも私はイタリア生活の中で忘れてしまっていた。
 記憶が、ほんとうだったかどうか確認しに来たのだ。

 山頂辺りに着くと、そこには廃墟になったキャンプ施設がまだ壊されずに古びたまま残っていた。その向こうに、クレーターがあったはずだ。

 あった。

 しかし、三十年という時を超え、それは湖となっていた。

 だが、しかし私はふと思った。これは本当にクレーターだったのか?
 もともと湖ではなかったのか?

 宇宙から落下した隕石が直径ニ五〇メートルのクレーターを造った、なんてそもそも誰が言い出した?
 あの日のクラスメートらじゃなかったか?

 新聞記事じゃなかったと思う。

 確かな情報だったのか?

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 この土地には、何故かブリテン島のカントリーサイドを流れているような川が幾つかある。
 少女は、そんな川のひとつで、何かをウォッシュしている。
 歳の頃は、我々の子供ぐらいの年齢だろうか・・・。少女はちらと、こちらを向いた。
 十歳位の子供の顔だ。そう思った。だが其の瞬間、ザザッと彼女の顔にブロックノイズのようなものが見えた。そして次の一瞬、一秒程だろうか、彼女の顔が人間のそれと違う、何かに見えたのだ。

 その顔は宇宙人特集テレビ番組に出て来るような、そう、『リトルグレイ』と呼ばれるアレ、つまり私には地球外からのエイリアンにしか見えなかったのだ。なのに私は驚愕という程に驚いたわけではない。
 この町、ブラックウッドに何らかのエイリアンが暮らして居るって事は、エレメンタリースクール時代から感じていた。

 当時のスチューデントらの噂話では、学校のそばの中華拉麺店の店主はあの日本が誇る国際俳優・高倉健に似ていたけれども、ほんとうは宇宙人{SPACE-MAN}だと云われていた。
 そんなある日「これが店主の正体だ」と、ひとりの友人が私にイラストを描いてくれた。

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 そうは言っても、日本中にブラックウッドみたいな町は無数にあるはずだ。
 そんなに特別だったわけではない。
 八十年代には、どこかアメリカの田舎町を思わせるジャパニーズタウンは多くあった。GHQのオキュペーション(占領期)は日本のアメリカ化を促したからだ。
 現在、世界に覇権を持った、ジャパニーズカーとジャパニーズアニメだが、車文化とアニメ文化は戦後にUSAからもたらされたテクノロジー&カルチャーのジャパナイズ版だ。忘れがちだが。

 田舎生活にも、それらは八十年代にはすでに国産文化のように浸透していた。その情報は当時、ブック&サウンドで我々の生活に入って来ていた。
 だが、当時の田舎では情報源が非常に少なく、我々は貪るようにブックショップとサウンドショップに出入りした。

 それでエレメンタリースクールは、噂(ゴシップ)の宝庫だった。そこでスチューデントが話すことは、あることないこと様々。あの有名なフロリダ州のタブロイド『ウィークリー・ワールドニュース』も真っ青。

 だが、親戚の子らの話を聞いていると、今のスチューデントも同じらしい。

 レン、リアラ、ユーイ、カイ、ミライ、タイチー、・・・あの頃ゴシップトークに夢中だった友の記憶が頭を過った。

 ふと、パジェロミニから外を見た。

 川があった。

 綺麗な小川だ。

 川で衣類をウォッシュしている少女が居る!


 ブラックウッドは小さな町。
 小さな世界。
 エレメンタリースクールに通っていた頃、私は此のブラックウッドの外の事は殆ど何も知らなかった・・・。
 町は四方を山が囲んでいる。ブラックウッドに入るには西山のトンネルから入境することになる。西山を貫通するように造られたトンネルは異様な外観をしていた。トンネルの周囲は東南アジアのジャングルを凌ぐ密林に被われていたし、其の地盤は南米ギアナ高地よろしく巨大な岩々の連なりだったのだ。トンネルが無かった時代には落武者が西山を越えてゆくヴァニシングポイントでさえあった。
 第二次世界大戦後、GHQ(アメリカ合衆国との戦争で敗戦した日本を一九四五年より七年間占領した米軍暫定政府機構)の指導によって、この西山のトンネルは造られたと聞く。エレメンタリースクール時代の私にとっては『西山トンネル』の向うの世界は想像上の場所であった。
 トンネルの向うは外部{GAIBU}、・・・その情報はブラックウッドのキッズワールド(子供らのバイオスフィア活動圏)では完全に遮断されていたのだ、二軒のブックショップと一軒のサウンド(レコード)ショップを除いては。

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 私がかつて生活して居たセカイ。
 小さな町。
 ブラックウッド。
 半世紀以上前、ここはオレンジファームで賑った。住民は当時五万人は居ただろう。町自体は、江戸期以前からあり、商業も栄えていた時代があったと歴史は語る。

 それは遥か昔の日々だが、私の幼少期は高度成長期のフルーツブームと同期しオレンジ栽培流通が町の一大産業のひとつだった。
 もともと密林・原生林の多様なゾーンでもあったのだが、当時のバブル経済の為に無用な開発と造成によって削り取られた山々もあった。
 私は少年であった。それらの状況を見て、おぼろげに記憶しているだけだ。記憶が本当にあった事かさえ、もう定かではなくなってきている。

 私は長い間、イタリアに住んでいたのだ。イタリアはロンバルディア州の田舎町モンザンバーノ。そこも非常に小さい町だった。こころ落ち着く教会があり、好きだった。

 そして、ブラックウッドへ戻って来た。

 もはや少年時代の、あの日の記憶しかないのだが・・・。

 あれは、ほんとうに起きたことだったのか、あの場所は、ほんとうに在った場所だったのか?

 探求がはじまった。

 山の向うのクレーター。
 少年の日の記憶。
 私は、パジェロミニを走らせた。

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